2023年のよかった本・映画など

2023年、今年も今年でいろいろあったけれども、そんななかでもまあぼちぼちと本を読んだり映画を観たりなんだりとしていたので、今年こそはその振りかえりをしようと思います。本、映画、その他、の部門になる予定。

ハン・ガン『すべての、白いものたちの』

あんまりにも美しいんで読み終えてしばらくどうしていいかわからなかった。読みはじめの印象は小説というより詩集なのかなという感じだったけど、読み進めるにつれてある物語の輪郭が浮かびあがってくる構造は間違いなく小説のそれだった。物語の全体がさびしさと静けさに満ちていて、読んでいるあいだはほんとにしんしんと雪の降る夜にひとり飲みこまれたような心地がする。で、その静寂のなかに、あらゆるものが生じて滅してゆくことの厳然さみたいなものが立ちあがってきて、なんだかもう、圧巻という感じだった。ちなみにおなじ作者の詩集『引き出しに夕方をしまっておいた』もかなりよかった。

ユベルマン『場所、それでもなお』

ユダヤ人虐殺にまつわる短い論考みたいなものが三本おさめられている。おなじ著者の『イメージ、それでもなお』もよかったけれど、こちらの「樹皮」と題された文章は、著者が実際にアウシュヴィッツを訪ねたときのことを写真をまじえて語るもので、根底には『イメージ、それでもなお』で展開された理論を感じさせながら、目の前の景色に著者自身の情感や記憶も重ねあわせられてゆくようなつくりになっていて、しみじみといいものを読んだなあと思わされた。明確な理論的な繋がりはないものの、なんとなくおなじ主題に沿ったような複数の短い文章が、あいだに写真なんかも挟みつつ連なってゆく、みたいな作品にぐっと来てしまいがちで、そういうものをいつか書けたらなあとも思うのだけれど、それのお手本というか、憧れのような作品だった。

村上春樹羊をめぐる冒険

三冊めにしてはやくも振りかえりを書くのに飽きてきた。昨年も一昨年もこういうことをやろうとして途中で飽きてやめている。ここからはひとまず書きあげることを目標に駈け足で進んでいきたい。本作、すべてが過ぎ去ってしまった切なさ、だった。

ベケット『ワット』

柄本明が「柄本家のゴドー」で似たようなことをいっていた気がするけれど、ベケットの登場人物たちは熱心であればあるほど滑稽で泣けてわらえて、とにかく読んでいてたのしい。後年の小説三部作のほうが言葉と身体のままならない連鎖としての語ること、みたいなものへの意識を感じられていっそう好きだけれど、こちらはこちらでバカみたいに執拗な繰りかえしの描写とかやばいな~となるところが多くて好きだった。

ユク・ホイ『再帰性と偶然性』

偶然性を必然性としてとりこむフィードバックシステムが横行する時代にわれわれはどうやって偶然性を取りかえすのか、という話。仕事と趣味の交叉点になるようなならないようなという予感を抱いて手にとった。どの箇所でも言っていることはだいたいおなじなのだけれど、あの手この手を使って緻密に議論が展開されてゆくのがたのしい。ライプニッツを扱っている章は全然わからなくてかなり流し読みした。

堀江敏幸『熊の敷石』

ずっと妙な緊張感がただよっている。表題作については、なにをしようとしたわけでもないなんとなくの仕種や言動が思いも寄らぬなにかを呼び起こしてしまったときの不和みたいなものが、なんというかもうままならないなあという感じだった。

土門蘭『死ぬまで生きる日記』

カウンセリングを受けているみたいですごい。普段あんまりエッセイの類いは読まないのだけれど、著者のようなはっきりとした希死念慮はないにしても、決して自身も生にめちゃくちゃ前向きというわけでもないので、読めてよかったと思った。

クレマン『動いている庭』

本のつくりも動いている庭という概念もかっこいい。外を歩くのがよりたのしくなる。

薮田崇之『起業家が知らないとヤバい契約書の読み方』

上司から読んでおきなさいといわれてしぶしぶ読んだが、案に相違してかなり面白かった。契約書のこういう文面はこういうふうにもとらえることができるから実はこういうリスクがあるのだ、みたいなことを示すくだりは、さながら探偵小説でも読んでいるかのような意外性があってたのしい。

映画

北野武その男、凶暴につき

TSUTAYAで借りて観て、面白すぎてひっくり返った。まずなによりも無機質に描かれる死がたまらない。そこにある死はいわば無意味の即自存在のようなもので、道具としての機能を一切拒絶している。死はただそこに死としてある。ヒロインの死と壮大なBGMをもって観客を泣かせようとする映画の対極に位置する映画だ。「ソナチネ」にたしか死を本気で怖がると死にたくなっちゃうみたいな台詞があったけれど、たぶん即自的な死の描かれ方はそういうところに由来しているのだろうなと思う。そしてそこに完璧な笑いの要素と、ばっちりきまった画が加わるのだから、もう好きになるしかない。これをきっかけにすっかり武に夢中になって、「アウトレイジ」より前のものはだいたいTSUTAYAで借りて観た気がする。

ゴダール「ウイークエンド」

こちらも理不尽な暴力・死という点で魅せられつつ、あの驚くほど長い長回しで完全にやられてしまった。一本道で渋滞に巻きこまれた男女が、どの車にも割りこみをさせてもらえないままどんどん進んでゆき、するとしだいにまわりの環境が荒れはじめ、とうとう道ばたには複数の死体が現われだす、という様子を、ひたすらわきからのカメラが並行して追ってゆくのだけれど、そのとんでもなさに、映画館の座席で興奮をおさえるのがほんとにたいへんだった。ただ本作はゴダール最後の商業映画だったとかで、終盤ではすでにその兆しが濃厚となり、なにがなんだかよくわからない時間が二十分ばかり続いた。そのあたりのことはなかったことにしている。

アントニオーニ「欲望」

映画もやはり二本で力尽きてしまったので、ここからは駈け足で駈けぬけていきたいと思う。今年は特に理由もなくアントニオーニをたくさん観て、どれも結構好きだったのだけれど、こちらはとりわけ展開の緩急がクセになって興奮しっぱなしだった。

山口淳太「リバー、流れないでよ」

構成の緻密に練られたループものはほんとに気持ちいい。ループの原因がめちゃくちゃチープなのもかなり好きだった。

キアロスタミライク・サムワン・イン・ラブ

東京をこんなふうに撮れるんだと思って驚いた。キアロスタミの「そして人生は続く」はいちばん好きな映画だったのけれど、去年ごろに監督の過去のあれこれが発覚して以降、そのことにどう向きあうべきなのかをちゃんと考えられていない。

エリセ「ミツバチのささやき

とても好きだった。それはひとつには印象にのこる画が多かったからというのがあるのだろうけれど、ただそれ以外の惹かれた理由というのがよくわかってなくて、また観て考えたい。

カウリスマキ「枯れ葉」

「ミツバチのややさき」を振りかえったところで映画の振りかえりはすっかり終わったつもりだったのが、暇だし散歩がてら観にいくか~ぐらいのテンションで観にいった本作にすっかり打ちのめされて、追記を余儀なくされた。80分という枠、画、台詞、間、色、音楽、全部が洗練されきっていて興奮が止まらなかった。昨年は「ケイコ、目を澄ませて」、一昨年は「偶然と想像」と、年末ごろにその年のベストとなりうる新作に出会いがちな気がする。

その他

ロロ「BGM」

軽やかでありながら、しかし確かな姿勢で震災に向きあっていた感じがある。ぼくはこういう過去といまとを行きつ戻りつみたいな構成に弱いと思った。音楽がよかった。演劇の感想を描くの全然得意じゃない気がする。難しい。

ヨーロッパ企画「切り裂かないけど攫いはするジャック」

気持ちよくわらえた。この限られた舞台と設定でこんなにも色いろの展開を生みだせるんだと思った。『リバー、流れないでよ』にもあったある種の馬鹿馬鹿しさは健在で、ひとによってはいっきに醒めるかもしれないけれども、ぼくはこういう馬鹿馬鹿しさを堂々とやられるとほんとうに愉快な気分になってしまうので、とても満足した。

サザンオールスターズ茅ケ崎ライブ2023

茅ケ崎の小さな野球場でたった四日間だけ開催された、デビュー45周年のライブ。まさか当選するとは思っていなかったので、信じられないような思いで臨んだ。「C調言葉に御用心」というサザンオールスターズ屈指の名曲からはじまり、「女呼んでブギ」というたまらなく馬鹿馬鹿しくて愛おしい楽曲へと続く。いつも通り「LOVE AFFAIR」も聴けた。茅ケ崎の海風を感じながらサザンオールスターズを観るというあまりにも貴重な時間となった。

日プ女子

同居人に釣られて見はじめてまんまとはまった。運営のやり方に不満を感じたり、特定の練習生に入れこんで毎日投票したりと、オーディション番組のあれこれを味わった。練習生の多くを年上としか感じられなかったのだけれど、といって(ぼくがいま27歳だから)彼女たちのことを28歳より上のようにとらえているかというとそれはそれでそんなことはなく、(実際は大半か高校生か大学生であるところを)なんとなく24歳ぐらいかなと感じている節があり、それが年上のように映るということは、ぼくはぼく自身のことをまだ23歳ぐらいだと思っているのだろうな、といったことを思ったりもした。桜庭遥花さんのことを忘れません。

インターネット創作をやめる

これまで数かずのインターネット創作(インターネット上で拡散されることを目的に行なわれる創作をかってにそう呼んでいる)をやってきたけれど、当面そういうものは止すことにした。色いろの限界を感じてしまったからだ。

色いろというのはまず、ありふれた話であるけれども、いいね数とかフォロワー数といった数字を意識することに疲れてしまった。これは非常にありふれた話であるので、これ以上説明することはない。

それからそういう数字が結局はなんの意味ももたないということも、しんどく感じられた。これは自分の絵が下手なのがいけないとも思うけれど、描いた絵が拡散されたところでなにか仕事になるわけでもないし、日々の生活が変わるわけでもない。

この絵が下手であるということというのは別の絶望にも繋がっていて、こんな下手な絵がウケてしまう、ということがある種の馬鹿馬鹿しささえ感じさせた。独学という言葉を使うことすらおこがましい稚拙な絵がよしとされてしまうこと、そうしてなにより自分がその作り手であることは、絶望というよりほかなかった。

とはいえ絵の巧拙は必ずしも重要ではない。描かれた内容や形式がその絵自体に説得力をあたえるといったことはまったくあり得る。ところがそういった点から捉えても、自分の作るものははっきり言ってしょうもなかった。

それはなぜかと言えば自分の作るものが自己救済の手段でしかなく、「共感」を手がかりとしていたからだ。ちょうど『書きあぐねている人のための小説入門』という本に、次のような一節がある。

自己実現や自己救済のための小説は、たまたま同じように鬱屈した人生を送っている人がいれば、その人たちの「共感」を呼ぶかもしれないが、読者を「感銘」させることはできない。「共感」というのは、「わかる、わかる」という気持ちで、読み手にとっては一時の慰めにしかならない(ただ、「共感」は得られやすいので、ベストセラーにはなる)。

まさに自分のインターネット創作はこういうものだった。もともとは幼い頃からの創作意欲に突き動かされてはじめたものが、気づけば強烈なコンプレックスを原動力とするようになっていた。新卒入社の広告代理店でクリエイティブ部門の配属にならなかったことが、自分を駆り立てた。

おれはほんとうは面白いものが作れるのだ、人事部の人間には見抜けなかったその力を見せつけてやるのだ、という思いが、労働そのものへの鬱憤を糧にして、人びとの「共感」をめざすかたちで次つぎと絵を描かせた。

そうしてそのことが、とうとう耐えがたくなった。それがいまだ。もちろんすべての創作がそうであったとは思わないし、たとえばしゅうまつのサラリーマンと題した四コマなどは自分でも好きだと思える、そしてなにより絵を見てくれたり拡散してくれたりコメントをくれたりしたひとたちにはほんとうに感謝している。

だから決して未来永劫こういうことをしない、というわけではない。インターネットへの公開を目的としない創作はいまも続けているし、いずれまたインターネットへの投稿も再開するかもしれない。ただ当面、インターネット創作はやめることにする。

新卒退職日記

2020/4/15
辞職の意向を伝えるため、午後から上長との面談をいれていた。長引いたら厄介だと思いながらパソコンに向かう。画面の向うで上長はいつものように笑っていた。単刀直入に退職したいのだというと、上長の表情は一瞬険しくなり、それからまたいつもの笑顔にもどって了解ですといった。特に理由をきかれることもなかった。長引くどころか、五分も経たずに話は終わった。これで僕の退職が決まった。

2019/5/10
配属発表の場は異様な緊張感に満ちていた。社長がみなの前に立ち、ひとりずつ配属先を告げてゆく。配属には明らかに当たりはずれがあった。勝ち組と負け組といってもいい。前者が出ると研修室内はどよめき、後者が出ると気遣うような拍手だけが鳴る。僕の配属先として発表されたのは、もっとも行きたくない部署の、もっとも行きたくない部門だった。気まずそうな拍手だけがきこえた。

2019/5/14
いわゆる勝ち組の、マーケティング戦略などに関わる部署の先輩たちが僕らの部署に言及するとき、まあその部署でもこういうことはできなくはないしどこにいようと自分しだいですからね、みたいな妙な気遣いを見せてくる。それなりの規模の会社なので自分の望み通りにいかないことは諦めもついているが、こういう情けをかけられると悲しくなる。中学の合唱コンクールで結果発表が行なわれるとき、クラス間であきらかな優劣があったのに、どのクラスもほんとうに上手で迷ったんですけど、という前置きをされる、あの感覚に近い。

2019/5/22
グループの先輩たちと顔合わせがあった。上長はよく笑うひとだった。僕が指導をうけることになる上司は三十代の女性で、語気が荒く、とにかく気の強いタイプだった。旅行が趣味だというのでおすすめの観光地を訊ねると、京都だといわれた。

2019/8/12
本配属になり一週間が経つ。デジタル土方の異名をもつこの職業はとにかく作業が中心で、世間一般が想像するような広告代理店の華やかさとはまるで無縁だった。一年目だからというのではなく、五年目の先輩もまったく同じことをやっている。上司から指導をうけていると、口調の問題か、なんだか常に説教をうけているようで疲れてしまう。

2019/8/27
毎日毎日毎日なんでこんな仕事をしているのかわからない。うちのグループは二年目の先輩がすでに全員辞めるか異動するかしていて、そういうことを気軽に相談することもできない。あとはほとんど年の離れた中途の先輩で、もともとこの部署でこういう仕事をするとわかって入社しているから、悩みも共有しづらい。同期と愚痴をいいあうことだけで、どうにか暗鬱な日々を乗り切っている。

2019/9/30
なんでそんなに時間かかるんですか? 意識が低いんじゃないですか? と朝から上司に大声で怒られる。もはや日課のようになっていた。叱責は何列も離れたデスクにまできこえているらしい。どう考えても隣りに座っている人間に話しかける声量ではない。

2019/10/11
部署の方針で二週間に一度、上長との面談が設定されている。僕が毎日上司に怒られているのを背中で聞いているはずなので、そのことを相談しようとしたら、仲良くやっているようでなによりだよ! と笑顔で先陣を切られ、なにもいえなくなってしまった。

2019/11/18
月曜の憂鬱というのはあまりにも耐えがたい。こんなことなら死んだほうがましだと思える。みんなこんなものなのだろうか。なにかの間違いで仕事がなくなったり上司が来なくなったりすればと思うが、いつものように絶えず作業は生まれ、上司はぶっきらぼうな挨拶とともにやって来る。

2019/11/25
残業が増えてきた。十時近くまで会社に残っていることが多い。それで環境がよければ耐えられるのかもしれないが、やることといえば相変わらず作業が中心で、隣りには上司が座っていてなにかあればすかさず攻撃的な言葉を飛ばしてくる。最近は行動の基準が上司に怒られないことになっている、と思った。なにか提案したり新しいことに手を出そうと思っても、それでまた怒られたらと考えるとなにもできない。

2019/11/28
上長との面談。最近の調子はどうかと問われたので思い切って現状を伝え、異動させてほしいと訴えた。すると上長は、楽しいことばかりの仕事なんてないし、残業のまったくない会社なんてない、といった。そういう話をしているのではない、いまが劣悪すぎるから少しでもましな環境に身を置きたいだけなのだ、と話してもまるで埒が明かない。的はずれな反論で逃げられ、最後にはいつもの笑顔でもうちょっと頑張ってみようかと肩をたたかれた。

2019/12/3
週一で作成する報告資料を途中で投げだした。こんな日々が続くのならもう死んだほうがいいと考えてデスクで泣きそうになった。そうして文字を打ちこんでいるうちになんだかほんとに死んでしまうような気がして、無理やり体裁だけ整えて提出した。あぶなかった、と思った。

2020/1/2
お正月だというので例年通り母の実家を訪ねる。祖母に仕事がつらいという話をしたら、戦時中よりましだといわれた。

2020/1/6
仕事はじめ。なんとなく気分の改まった感もあって現状を冷静に振り返ってみた。いまの自分は業務内容、労働時間、それから上司との関係からたぶん鬱病の一歩手前にあって、でもそれを自覚できるだけの余裕はある。だからほんとうになにもできなくなる前に行動をしなければならない。ゆとりだの甘えだのといわれようと知ったことではない。石の上にも三年といったって気づいたら石の上で冷たくなっていたんじゃ意味がないのだ。まずは他部署の同期に話をきいて異動の希望に具体性をもたせつつ、転職エージェントに登録していざとなったらすぐに動きだせるようにしておく必要がある。この半年でぜったいに決着をつけようと誓った。

2020/1/22
どれだけ上長に訴えても伝わらないと確信して、信頼している人事に連絡をいれた。何ヶ月経っても業務内容が苦痛で、残業も多い、もう精神の限界が来ているから異動させてほしいと泣きそうになりながら伝えた。上司のことはいえなかった。親身に話を聞いてくれ、人事に異動の決定権はないから、そういうことならこちらから上長に掛けあってみようといってくれた。深く礼を述べたあとで、もし当面異動が叶わないようであれば転職活動を進めるということを伝えた。

2020/1/20
あまりにも気がふさいで社食で頭を抱えていたら同期に見つかった。

2020/1/27
人事から話を聞いた、といって上長に呼ばれた。君がそれほど深刻に悩んでいるとは思わなかったと謝られた。でも、いまの環境がいやだから、という理由では異動はできない、誰もそんなモチベーションの人間には来てほしくないから、と上長の話は続いた。それにもっとつらい思いをしているひとはきっとたくさんいるよ、と付け加える。帰りの電車で、転職エージェントの面談を予約した。

2020/1/30
転職エージェントとの電話で、いまどんな仕事をしているのかということを話した。自身の仕事が業界内でどのような位置づけにあり、その強みをどう活かせるのかをきちんと理解できている、といってくれた。そういうことを述べるのが向うの仕事なのだとわかっていても、上司に否定されてばかりの僕にとっては救いのような言葉だった。

2020/2/18
夜の九時半ごろ、見積りを作成していた。ちょっと厄介な案件で、ようやく完成したと思ったら最初の段階でミスを犯していることに気づいた。それを知った上司が、はい残念! やり直し~! と嬉しそうにいった。どうしてこの情況でそういう言葉が出てくるのか、ほんとうにわからない。

2020/3/4
COVID-19の脅威をうけてはじまった在宅勤務も二週目に突入した。十社ほど書類を出したが、一社からは既にお祈りメールを頂戴していた。第二新卒といっても結局はただの中途採用で、なかなか厳しい道のりであることが予感される。

2020/3/15
書類選考が通ったのは十社中たったの二社で、ところが恰度それが行きたい会社だったのでよかった。住宅メーカーとウェブ出版社で、どちらも広報や企画といったことを担う部署だった。

2020/3/22
ウェブ出版社の一次面接のため、仕事を早めに切りあげる。一年前はまさか自分がこんなことしているとは思ってもいなかった。面接は二年ぶりだったが、人事が大学の先輩だということが判明して話も弾み、その場で最終面接の案内をいただいた。

2020/3/30
午前半休をとって住宅メーカーの面接に向かう。こんな情勢であるのに渋谷はそれなりの混雑だった。面接官は強面の人事で、営業への異動もあり得るが問題ないかときかれた。問題ないと答えたが、そんなわけない。おそらく顔に出ていたのだろう、面接が終わって二時間としないうちにお祈りメールが来た。

2020/4/6
世界ではCOVID-19が猖獗を極め、国内でも緊急事態宣言が発表されることになったという。ウェブ出版社の最終面接は明日だった。いったいどうなるのだろうと思っていると転職エージェントから電話がはいり、こうした情勢をうけて中途採用自体がとりやめになったと伝えられた。十分に予想されうることだったが、絶望した。

2020/4/7
朝、あらゆるやる気を喪失して便座にぼんやりと座っていると、またしても転職エージェントから電話がかかってきた。交渉の結果、面接が復活したという。そんなことがあるのかと思った。ともあれそうとなればやれるだけのことはやるしかない、気を奮い立たせて緊急事態宣言前夜の東京に出向き、面接をうけた。手応えとしては可もなく不可もなく、というところだった。すっきりしない気分のまま帰路について最寄駅で降りると、電話が鳴った。転職エージェントからだった。おめでとうございます! という昂奮ぎみの声が飛びこんできた。わざとらしく夜空を見上げてみた。ようやく終わったのだ、と思った。本格的に動きはじめてから約二ヶ月、あっけないといえばあっけなかった。そのまま入社予定日や退職交渉の説明をうける。このことを伝えたら上長はどんな顔をするだろうか、引き止められたりするのだろうか、そんなことを考えながら夜道を歩いた。

2019/4/1
今日からサラリーマンとしての生活がはじまった。働きたくはないものの、働かねばならないとなれば、やりたいことは色いろある。クリエーティブの制作かマーケティング戦略を考案するような部署に行けたらいい、と思う。一ヶ月後にどんな部署への配属をいいわたされるのか、一年後にどんな案件をもっているのか、そういうことを考えるのは少しだけたのしい。

2021年9月19日

11:00頃

きれいな秋晴れ。これだけ気候がいいのだから今日という日を有意義に過ごさなければならない、というようなプレッシャーを感じる。といっていったいどうすれば有意義に過ごしたことになるのかがわからない。とりあえず昼寝をしてしまうのだけは避けようと、思いつく限りの作業をかたっぱしからやっつけて、眠らないようにする。そうしているうちに妙案が浮かぶだろうと思った。お湯をかぶって寝ぐせをなおしたり、メルカリの梱包をしたり、今度のライブでライブTシャツにあわせるパンツと靴下を検討したりした。

 

12:30頃

昼食を終え、午後の過ごし方を本格的に考えはじめる。どこかでアイスコーヒーをテイクアウトして、風を浴びながら木陰で本を読みたいと思った。近場でそういうことができそうなところを調べたが、ないのであきらめた。50分ほど悩み、隣のM駅から歩いて数分のところにあるコーヒー屋に出かけることを決めた。

 

13:30頃

梱包の済んだメルカリの荷物を携え、自転車にまたがった。E通りのセブン‐イレブンには三分ほどで着く。こちらが荷物を抱えてレジに向かおうとしたときには既に店員がバーコードリーダーをもって待ち構えており、荷物に貼る伝票みたいなものもいつの間にか用意されている。すごい、と、恥ずかしい、が同時に押しよせる。

 

13:40頃

Googleマップに従い、陸橋をくだる。いつからそうなったのか知らないが、車道の端にここは自転車用のスペースだと示すように青い矢印みたいなものが描かれていて、それがずいぶんな幅をとっている。自転車の側からしたらありがたいが、自転車にこんなに幅をもっていかれては自動車のほうが困るのではないかという気もする。というか、これまでに何度もここを自動車で通っているが、こんな矢印のあることなどまったく気づかなかった。ともあれいまは自転車の側であるわけなので、こうした配慮をありがたく思いながら、前輪がその矢印の先端をちょうど通るようにハンドルを操作してみる。陸橋をくだりきるまでに、一台の自動車にも追い越されることはなかった。

K通りをわたり、さらに直進。A川に突き当たったところを右に折れると橋が架かっており、その狭い歩道をよろよろと進んだ。Googleマップは橋の反対側にわたって川沿いの道を行けといっている。信号も横断歩道もなく、まったく無茶な指示だと思ったが、幸いにして自動車の流れが停滞していたので、どうにかその通りにした。ひどい砂利道だった。もっとまともなルートがあるだろうことは地図を見るだけでもあきらかなのだが、Googleマップにそうしろといわれるとなぜか妙に律儀になってしまうところがある。

それからしばらくは用水路に沿って伸びる細道を進んだ。用水路といっても草木が生い茂っているので実際に水が通っているのかはよくわからない。やけに丈のある草の先には黄色い花が散りばめられており、それが青空に映えてきれいではあったが、わざわざ自転車を停めて写真におさめるほどではないのでそのまま通りすぎた。

やがて用水路とは反対の側に田園がのぞいた。薄茶色の稲穂が垂れており、もうそんな季節かと思ったが、よくよく考えてみれば稲がいつ頃に植えられてどれくらいの時期に色づくのかなんてことはまるで正確なところを知らない。Googleマップはあぜ道を進むよう示していたが、さすがにこればかりは無視してアスファルトの道を選んだ。

 

14:10頃

目当てのコーヒー屋を見つける。ずいぶん小ぢんまりとしていて、そうと知らなければ見過ごしてしまいそうなたたずまいだった。自転車を駐める場所が見当たらないので、やむを得ず通りの反対側にあるセブン‐イレブンの駐輪場を借りることにした。こっちでメルカリの発送をすれば自転車を駐める大義名分もいちおう得られたものを、と無理を承知で思ってみる。

店内は壁に沿ってカウンターが設えられ、それから二、三のテーブルが置かれていた。先客は三組ほどあった。店員がお好きなところをというので窓際のカウンターに向かいかけたが、そのカウンターというのが、店の隅に嵌めこまれたL字型の板の各辺にひとつずつ椅子を置いたもので、壁と対峙して窓を横目に見るほうの席には既にひとりの女性客があった。もう一方の席はまさに窓と向かい合う恰好で、往来をながめつつ風を浴びられる申し分のない位置にあるのだが、その女性からしたらほかに空席はあるのにあえてこの狭いL字のもう一辺を狙ってきた不審な男と映りかねない、というためらいが生じ、足が止まってしまった。もう一度店内を見まわす。しかしほかは女性のふたり組と隣り合うことになったり、あるいは店主と向かい合うことになったりといまひとつ気が進まないし、なにより窓から吹きぬけるこの風をじかに浴びられないのは惜しい、とはじめの気持ちにあらがえず、結局窓際の席を選んだ。

店員がメニューをもってくる。最初に注意書きがあり、会話時はマスク着用、店内利用は一時間まで、などわりに細かい事項が並べられている。iPhoneを見ると14:15とあるので、15:15にはここを出ないといけないと考える。

数分悩んで、季節のブレンドを注文した。それから前職時代の同期LINEに通知があったのを思い出す。昼ごろに投稿されたGoogleアナリティクスにまつわる質問がいちおう解決したと見え、なにやらくだけた調子の返信がついている。内輪なら通じる内容なのだろうが、既に外部の人間なので意味はよくわからない。ただもともとの質問のほうはまさにいまやっている仕事の領域だから、あの会社にもどるようなことがあっても案外やっていけるのかもしれないと思う、同時に、もう二度と広告代理店では働きたくない、という思いが湧きあがる。

 

14:25頃

季節のブレンドが運ばれてくる。説明にあった通りフルーティーな香りがする。iPhoneで時刻を確かめ、あと50分以内には飲み終えないといけないと意識する。『夢判断』の下巻がいま270ページだから、それまでにあと30ページは進めておきたい。

 

15:00頃

『夢判断』が(当たり前ではあるが)夢の話ばかりするので飽きてきて、流し読みしていたらいつの間にか文脈を追えなくなっていた。とはいえあと5ページで300ページに到達するのでとりあえず気合で読み進める。別に精神分析の研究者になりたいわけでもないんだからいいだろうという気持ちと、こういうことばかりしているからいつまで経っても頭がわるいのだ、それにこんな態度で読書をするくらいならしないほうがマシだ、という自責の念とがせめぎ合うなかで、とにもかくにも300ページめに至る。残り五分の一ほどになったコーヒーを飲み干す。まだ10分くらいはいられるが、きりもいいので出ることにした。

 

15:05頃

セブン‐イレブンにもどろうとすると、駐輪場に三つの人影がちらちらしている。なにか取り締まりのようなものでも行なわれているのだろうかと急に不安になる。ところが近づいてみるとその三人というのは母親ひとりと小学生ほどの息子ふたりといった構成で、なにやら駐められた自転車のサドルをティッシュのようなもので拭いてまわっている。いったい目の前でなにが繰りひろげられているのかわからず、こちらが呆然としているうちに、その三人は山となったティッシュのようなものをビニル袋に詰めてどこかへ行ってしまった。なにがなんだかわからなかった。ただ、自分の自転車のサドルを見ると、たしかに濡れたものでなにかを拭きとったような跡がある。

考えられるのはかれらが、たとえば息子たちがアイスを他人のサドルにこぼしたかどうかしてなんらかの汚れをつけてしまったのでそれを拭きとった、というパターンか、あるいはこちらはまったくの善行であるような、たとえば鳥の糞が一面に降ってきたのでそれらをまとめて拭きとってやった、というパターンか、それくらいなものだった。ただ、いずれにしろなにがどういうわけで附着していたのかがわからないというのは気色がわるいし、こわい。こわいので、とりあえずサドルに尻を着けぬよう立ち漕ぎになって逃げた。それから駅前のファミリーマートにはいり、キレイキレイの除菌シートを購入。念入りにサドルを除菌し、ようやく腰を落ち着けた。

 

15:15頃

Googleマップに自宅の住所をいれると複数のルートが提示される。行きと同じではつまらないのでS市を経由して帰る方法を選択。

頭のなかではいまだにあの三人組がサドルを拭いており、あんたらが働いたんは悪行と善行どっち、という問いかけがぐるぐるしている。そうして川上未映子の『夏物語』を読んでいるせいでこんな口調になっている、と思う。でもそれじゃあ普段の自分が物事を考えるときはいったいどんな語調なのかといわれると、わからない。思考の文体、というそれっぽい言葉が思い浮かんだ。

 

15:35頃

Googleマップの示す通りに国道を走っていたものの、あきらかに自転車ではなし得ない移動を求められ、従うことを断念。地元の方面にもどれるよういちおうの見当をつけて国道をはずれると、ランニングコースのような舗道が敷かれた土手に出た。川と反対の側には樹々が植えられており、枝がずいぶん低いところまで垂れてきているので、時おり頭を下げる必要があった。ただこういうものは自分がそのように感じているだけで、はたから見れば案外余裕があり、いったいあれはなんでひょこひょこと頭を下げているのだろうとおかしく思うかもしれない。ビッグサンダーマウンテンにはじめて乗ったとき、途中、本気で頭をぶつけると思って首をひっこめたことがあったと思い出す。

道ばたには曼殊沙華の赤が連綿と続いていた。このあいだだれかが、それがリアルだったかTwitterだったかも定かではないのだけれど、あのひとは彼岸花のことをあえて曼殊沙華という言い方をするようなひとだ、みたいな批評を下していて、自分はその両者の使い分けになんらかのニュアンスをもたせたことがなかったから、そう感じるひともいるんだなと思ったことを思い出しつつ、あれはだれの発言だったろうともやもやする。

 

15:45頃

知っている道に出て安堵する。昔からファッションセンターしまむらがあるところに相かわらずファッションセンターしまむらがあるので、懐かしさのようなものをおぼえて十数年ぶりに入店した。十数年前と同じような服が売られているのを見て驚く。

 

15:55頃

おおきい公園の脇を通りかかると小学生のサッカークラブが試合を行なっていたので、思わず自転車を停める。小学生のサッカーが見たい、という昨晩にツイートをしようとして結局しなかった願望が思いのほかはやく達せられた。ゴールに対してキーパーの身体があまりにも小さいので、こんなものミドルシュートを打ってしまえば一発だろうと思うのにそうはならない。ボールが左サイドに転がると皆がいっせいに左サイドに押しよせ、逆サイドはがら空きになる。それでも本人たちは一所懸命で、かつては自分もこうだったのだという思いが込みあげてくる。

あんまり見ていてもあやしまれる、と自転車を漕ぎだしたそのとき、ふと、今日のことを文章にまとめようと思った。いや、まとめるというより、ただ見たこと思ったことをありのままに描出したい。もちろんそういうことは厳密には不可能なのだが、読み手の目を意識して構成を整えたり、説明やあとから思ったことをつけ加えたり、そういうのはいっさいなしでやってみたい。

 

16:05頃

いよいよ見慣れた道にまで帰ってきた。自転車を漕ぎながら、行きにGoogleマップの無茶な案内に従ったこと、そのときGoogleマップにはなぜか律儀になってしまうと考えたことは必ず書こう、それから思考の文体のことも忘れないようにしよう、と既に帰宅後に記す内容を思いかえしはじめている。するとなぜかAKB48の「涙サプライズ!」のサビが急に脳内に流れだした。

 

16:20

帰宅