インターネット創作をやめる

これまで数かずのインターネット創作(インターネット上で拡散されることを目的に行なわれる創作をかってにそう呼んでいる)をやってきたけれど、当面そういうものは止すことにした。色いろの限界を感じてしまったからだ。

色いろというのはまず、ありふれた話であるけれども、いいね数とかフォロワー数といった数字を意識することに疲れてしまった。これは非常にありふれた話であるので、これ以上説明することはない。

それからそういう数字が結局はなんの意味ももたないということも、しんどく感じられた。これは自分の絵が下手なのがいけないとも思うけれど、描いた絵が拡散されたところでなにか仕事になるわけでもないし、日々の生活が変わるわけでもない。

この絵が下手であるということというのは別の絶望にも繋がっていて、こんな下手な絵がウケてしまう、ということがある種の馬鹿馬鹿しささえ感じさせた。独学という言葉を使うことすらおこがましい稚拙な絵がよしとされてしまうこと、そうしてなにより自分がその作り手であることは、絶望というよりほかなかった。

とはいえ絵の巧拙は必ずしも重要ではない。描かれた内容や形式がその絵自体に説得力をあたえるといったことはまったくあり得る。ところがそういった点から捉えても、自分の作るものははっきり言ってしょうもなかった。

それはなぜかと言えば自分の作るものが自己救済の手段でしかなく、「共感」を手がかりとしていたからだ。ちょうど『書きあぐねている人のための小説入門』という本に、次のような一節がある。

自己実現や自己救済のための小説は、たまたま同じように鬱屈した人生を送っている人がいれば、その人たちの「共感」を呼ぶかもしれないが、読者を「感銘」させることはできない。「共感」というのは、「わかる、わかる」という気持ちで、読み手にとっては一時の慰めにしかならない(ただ、「共感」は得られやすいので、ベストセラーにはなる)。

まさに自分のインターネット創作はこういうものだった。もともとは幼い頃からの創作意欲に突き動かされてはじめたものが、気づけば強烈なコンプレックスを原動力とするようになっていた。新卒入社の広告代理店でクリエイティブ部門の配属にならなかったことが、自分を駆り立てた。

おれはほんとうは面白いものが作れるのだ、人事部の人間には見抜けなかったその力を見せつけてやるのだ、という思いが、労働そのものへの鬱憤を糧にして、人びとの「共感」をめざすかたちで次つぎと絵を描かせた。

そうしてそのことが、とうとう耐えがたくなった。それがいまだ。もちろんすべての創作がそうであったとは思わないし、たとえばしゅうまつのサラリーマンと題した四コマなどは自分でも好きだと思える、そしてなにより絵を見てくれたり拡散してくれたりコメントをくれたりしたひとたちにはほんとうに感謝している。

だから決して未来永劫こういうことをしない、というわけではない。インターネットへの公開を目的としない創作はいまも続けているし、いずれまたインターネットへの投稿も再開するかもしれない。ただ当面、インターネット創作はやめることにする。